怒っている人には近寄りがたいものだ。
しかし大小はあるが、みなさん怒っておられる。
怒りは負の感情だからよろしくないというのが世の定説としてそこら中に広まり人々に共有されているが「怒り」そのものの源泉を掘り当てるところまでたどり着く人はほとんどいない。
- 嫌なことをされた
- 理不尽な要求をされた
- 無視された
- 虫に刺された
- 穴に落ちた
などなど自分以外のナニカの影響で怒りが発生しているような気がする。
自分以外のナニカが自身の源泉をほじくり返してそこにある「怒り」が湧いて出て来ていると思いこみがちだ。
半分正解で半分不正解。
ほじくり返した先にあるのはなにか?
正解は自身の固定概念。
つまり「怒り」という感情は自身で決めつけているものだ。
自分以外のナニカが掘り返した源泉の先にある「怒り」の感情は、自身で作り上げているという事にまずは気づかなければならない。
そして自身が決めているこの「怒り」を、選択しないコントロールも可能なことを知っておきたい。
うまく「怒り」のことをわかってあげるにはまず構造を知ることが重要だ。
この記事は「怒り」という感情にいやいや振りまわされ疲弊、憔悴している人たちが少しでも楽になれるきっかけとなることを目的として作成しています。
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自身が怒るところを想像してみて欲しい。
- 理不尽に異性から振られた
- 自身のせいにされた
- 虫に刺された
どの例も他者からの攻撃に反応して「怒り」が湧いて出てきているようなイメージだが、ないところからはなにも出てこない。
例えば、近しい人物を怒らせるために「このイカやろう!」と言ってみたらどうだろうか?
言ってる人間は怒らせるために言っているのに、言われた本人は罵詈雑言などとは思わないのではないだろうか。
なぜか?
言われた本人は自身のことを全く「イカやろう」だとは思っていないからだ。
「イカやろう」だとは思っていないので怒りが出てこない。
そりゃそうだ。
「イカやろう」と言われることが自身の固定概念では怒りに結びついていないということだ。
これを踏まえて上記の例を見てみよう。
- 理不尽に振られたという理解できないものへの怒り
- どうして人のせいにするんだろうという不満
- いきなり攻撃してくることにビックリするし痛い
細かい状況を踏まえるとキリがないので、ありがちな例ではあるが、心理としてはこんなことを思っているのではないだろうか。
どれも他者から攻撃されている事に怒りを覚えている描写に見える。
理不尽に対して怒っているので、その部分を「イカやろう」に変えてみよう。
- 理不尽=イカやろう
- 理不尽に振られて怒っている
- イカやろうに振られて怒っている
- イカやろうが悪だと思っている=理不尽が悪だと思っている
いかがだろうか。
自身が悪だと決めつけている固定概念を持っていることがわかる。
同じ理由で残りの二つの事例は
- 人のせいにすることは悪
- 虫に刺されるのは悪
と決めつけている固定概念が見えてくる。
自身で悪だと決めつけて疑わないことをされればそれは誰だって怒りが湧いてくるのはあたりまえだ。
しかし悪だと思っていなければ例の「イカやろう」のように怒りが湧くこともなくなる。
ようは固定概念を壊せばいい話で、もう怒りにさいなまれて眠れない夜を過ごすこともなくなるはずだ。
どのようにすればいいのか?
怒りの正体とは?感情をコントロールする方法。

「怒り」の源泉には自身で決めつけている固定概念が存在していることは前章で明らかになったが、その岩よりも硬そうな固定概念をいかに壊していくか考えていこう。
ガラスが割るように固定概念にも何かをぶつけるのだ。
なにをぶつけるのか?
ー(マイナス) に +(プラス)をぶつけると0になる。
理不尽を例に挙げてみると
- ー(マイナス)=理不尽は悪という決めつけ
- +(プラス) =理不尽ではないのかもしれない気づき
決めつけていることへの「気づき」をぶつけることだ。
- 理不尽にもそこには理由や行動原理が必ずあるはず
- うやむやだったり知らない事実があるかもしれない
そこに気づくことができたのなら、自身の中の理不尽は悪という固定概念は成立しなくなるだろう。
ほかの二例も見てみよう。
人のせいにすることが悪
- 人のせいにするメリットを考える
- 人のせいにしてなにかから逃れたいため
- 自身が助かりたいための防衛本能
虫に刺されることが悪
- 虫が危険をおかしてまで攻撃してくる理由
- 養分を得るためや守るため
- 生きていくためにはあたりまえの行為
状況によっては変化するだろうが上記のようなことに気づいた瞬間に怒りは源泉には存在しなくなる。
つまり一つの結論として導き出されるのが
「気づく」こと。
結果、自身の固定概念を壊すことにつながる。
自身の決めつけということに「気づく」ことで固定概念が壊され0(ゼロ)になるからこそ、ようやく「許す」ことができるのだ。
「許す」ことで怒りは完全になくなる。

そして共通点があることに気づかないだろうか。
- 理不尽に振る意味がわからない
- 人のせいにする神経がわからない
- いきなり攻撃してくる理由がわからない
そう「わからない」事に対して「怒り」が発生している。
なぜ「わからない」=「怒り」になるのか?
それは原始の時代の本能からくるものだ。
原始時代の人間は「わからない」事が即危険につながることが多く、その経験が防衛本能に刻み込まれているため、現代でもわからないことが起こると不安を覚えストレスから「怒り」を感じてしまうものだ。
そのため「わからない」を解読していくことが自身の「怒り」の固定概念を見つけるのに手っ取り早い方法である。
「わからない」=「怒り」
「わからない」答えに「気づく」ときに固定概念は壊れ、「許す」ことで二度と「怒り」が湧かなくなるようになる。
それが「怒り」の感情をコントロールする方法である。
怒りの正体とは?まとめ

「怒り」の感情が出てくるときというのは、自身がそこに「怒り」の固定概念を持ち合わせてるということだ。
「怒り」の矛先が外に向けられてしまうのは、外からの干渉のせいで「怒り」が発生していると思い込んでいるから。
怒るということ=正しいと思っていること
〇〇が悪いと決めつけてしまっている状態だ。
これでは自身がどんどん正しさと「怒り」の間で疲れてしまう一方である。
「怒り」が湧いたとき
- 〇〇は自分が正しい
- 〇〇をする理由がわからない
- 〇〇は理解できない
というような自身の正しさを振りかざして「わからない」ことを悪に仕立て上げているような状態だ。
「わからない」事に「怒り」散らすのではなく
「気づき」「許す」
ことで固定概念は壊され「怒り」の感情をコントロールして生きていくことができる。
負の感情と言われるゆえんは、他者に向けられる性質を持つ感情だからかもしれない。
昔からよく言われている
「怒りに身を任せてはいけない」
という言葉の意味は
「怒りは身を任せるものではなく気づきを与えてくれるもの」
という解釈で捉えてもいいのではないかと思う。
自身も過去そうだったように、いかに「怒り=正しさ」に振り回されて生きている人の多いことか。
怒りをコントロールできるものだと信じ、「気づく」ことでよりよい環境が手に入り、「許す」ことでさらにクオリティの高い人生を送っていける。
そんな人々で溢れる世の中になることを切に願っております。
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