天才とは?才能の正体と間違った努力の方向性

天才犬のドヤ顔と努力 ライフスタイル

天才とは?

 

そもそもの天才の定義は?

 

「天性の才能」「生まれつき備わった優れた才能」という意味だ。

 

誰でも「天才」になりたいと思っている(偏見)だろうし

 

  • 生まれつき天才だったらいいのに。
  • 天才だったらこんなに悩まなくてすんだのに。
  • 神様!天才的な才能を私にください!

 

などと思ったことがある人々も少なくないのではないだろうか。

 

しかし「天才」とはそんな都合のよい代物ではない。

 

生まれつきの身体性からなる運動能力や潜在能力の差は確かに存在するだろう。

 

その先は?

 

生まれたままの状態でどうやって「天才」だということを証明できるのか。

 

「天才」とは悩みなどもたない都合のよい存在なのか。

 

他者から与えられない、才能(がない)を天才のせいにしていないか。

 

まるで物語の登場人物のように、触れられない存在しないもののようなあつかいだ。

 

ここで「天才」というぼんやりあやふやな存在の輪郭をはっきりさせてみよう。

 

この記事は、天才についてなんとなく思ってはいたけど気づかないふりをしていた、これから才能とどう向き合うかなど、自身と比較してもがき苦しまなくて良くなるような内容になっています。

 

関連記事

怒りの正体とは?決めつけた感情をコントロールする方法

ストイックの正体とは?やる気スイッチの仕組みと継続の習慣化ループ

スポンサーリンク

天才とは?才能の正体

コンピューター学習の賢そうな犬
コンピューター学習の賢そうな犬

現代の社会で「天才」をはたして天性の才能という意味で使用されているのか?

 

実際に日常で天才が使用されている例として

 

  • 社内で営業の天才がいる
  • 取引先の社長が天才的手腕だ
  • 学力テスト1位の学校内の神童
  • 妻の料理が天才的
  • 天才だらけの地区大会決勝戦(何の)

 

そんな日常という狭い範囲に「天才」がゴロゴロいることがわかる。

 

ここで気づくことがある。

 

登場している「天才」たちはみな、かなり努力した結果だということがうかがえる。

 

というか才能というより努力して成功している人たちの例だ。

 

生まれてすぐに神童で決勝まで勝ち上がり料理上手で営業手腕が見事な社長など存在しえない。

 

もともと「天才」だったわけではなく、なんらかの努力を経由してそう呼ばれるようになったということだ。

 

努力が先にある事実を無視して「天才」という言葉で片付けられてしまっている。

 

ここからわかることは

 

  • 天才とはできない理由の偶像化
  • 自身に都合の良い言い訳の対象として捏造された才能

 

というような使い方をされている。

 

  • 自分ではできないができているあの人はすごい(偶像化)
  • 才能がある人はいいよななんでもできて。自分なんて…(捏造才能)

 

完全に努力が置き去りになってしまっている。

 

同じような事例の「天才」という定義は、才能がないと思っている人のでっち上げという意味で広く使われている。

 

112時間必死に勉強して難関校に合格した受験生に向かって

 

「天才だ!」

 

などとのたまってしまったら

 

「いっぱい努力したんじゃい!」

 

と逆鱗に触れるのがオチだろう。

 

ここまでを踏まえて一つの結論として

 

  • 努力し続けたから天才と呼ばれるようになった。
  • 努力し続けられなかったから天才になれなかった。

 

ということがわかる。

 

努力次第では天才は後付けできるということだ。

スポンサーリンク

天才とは?間違った努力の方向性

少年の読書による天才的気づきまたはひらめき
少年の読書による天才的気づきまたはひらめき

じゃあ努力すれば誰しもが「天才」になれるのか?

 

「天才」と呼ばれる存在になることは誰だって可能である。

 

もちろん得意不得意に感じることはあるが、不得意だからといって才能がないという事にはならない。

 

そこに至るまでの環境で大きく左右されている。

 

天才の代表格アルベルト・アインシュタインの言葉に

 

「私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である」

 

という言葉がある。

 

教育自体に思考の強制のような要素があるので、自身の学習が多大な影響を受けてしまうという、実に的を射た言葉だ。

 

アインシュタインはこうも言っている。

 

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

 

幼いころ両親から言われたことや、学校で教わったこと、社会に出てから先輩上司に学んだこと、それらの様々な要素が自身の得意不得意というまぼろしを生んでしまっているということだ。

 

得意不得意とは必ずしも自分自身で選んで決断しているわけではない。

 

苦手だと思っていたことが、幼い頃にうえつけられた固定概念にそう思わされていたなんてこともよくある。

 

自分自身で選んでいるつもりが、実は固定概念が選んでいるのだ。

 

そして「天才」があいまいな使われ方をされているのも各々の固定概念の差が原因にほかならない。

 

そこに気づくことができたのならあとは努力によって何者にでもなれるだろう。

 

上記の例どおり何かに特化すればいいからだ。

 

1つの分野に深く精通するためには1万時間を要すると言われているが

 

18時間費やした計算だと3年半ほどかかる。

 

そのくらいの時間、正しい方向での努力を積み上げることができれば、誰しもが可能と言えるだろう。

 

ちょっと待て、と

 

「20年間真面目に働いてきたけど万年平社員だぞ!」

「何年も頑張ってきたけど1度もレギュラーに慣れていないぞ!」

 

残念ながらそれは正しい努力ではなかったということ。

 

  • 真面目に働く=正しい方向性で続ける努力
  • 何年も頑張る=正しい方向性で続ける努力

 

のように思われがちだが実は努力ではない。

 

  • 20年間真面目に働くことは努力ではなく報酬に見合わないただの我慢。
  • 何年もただ頑張ることは努力ではなく報酬に見合わないただの我慢。

 

真面目に働くことが目的ではなく成果を上げることが昇格につながるはずだ。

 

何年も頑張ることが目的ではなく実績を出すことがレギュラーになれる道だ。

 

間違った方向性と行為に見合わない報酬はただの我慢でしかない(努力ではない)

 

自身の努力(と思っていること)と向き合うことが、正しい方向性で続ける努力への唯一の近道である。

 

そしてその正しい努力を続けた先に「天才」と呼ばれる未来が待っている。

スポンサーリンク

天才とは?まとめ

ある大学の卒業風景と未来の天才達
ある大学の卒業風景と未来の天才達

生まれつきの才能と天才性の関係は似ているようで全く解釈が異なるということが前述のとおりあきらかになった。

 

町の食堂で例えるなら

 

「才能は定食」

「天才は追加注文」

 

と言えるのではないだろうか。

 

生まれつき備わっている身体性や環境を含めた才能は食堂定番の定食。

 

定食の内容はこちらで変えることはできない。

 

正しい方向性で続ける努力で得た天才性は、定食だけでは足りずに注文したあげものやめん類など。

 

さまざまなサイドメニューの中から選び放題だ。

 

もちろん定食で満足することが悪いことだと思っているわけではない。

 

追加注文しすぎて処理できなくなる場合もある。

 

「天才」とは神に選ばれてなるものではなく、自身で選んだ追加注文が正体だということ。

 

好きなものを注文し、食べて、自身の一部とする。

 

正しい努力の習慣化の先にある誰でもなれるものが天才である。

 

願わくば、自身に才能がないと思い悩むより、自身に日々「+1」の追加注文を。

コメント

タイトルとURLをコピーしました